御手洗(3)
 四軒の茶屋が御手洗に来たのは、18世紀前半から中期、すなわち享保から宝暦にかけてである。それは、蛭子神社の修復がしばしばおこなわれはじめた時期とも重なり、御手洗が港町として繁栄のきざしを見せはじめた時代とみることができよう。
 若胡屋、堺屋が営んだ「船後家」なる商いは、沖に碇泊する船に小舟を漕ぎ寄せ、船乗りの身のまわりの世話、衣服のつくろいから洗濯など一切を行ない、夜は、一夜妻として伽をつとめるもの、と古老は伝えている。「船後家」の名もそのようなところから起こったのであろう。
 この風習は、昭和30年代前半まで御手洗をはじめとし、大崎上島木之江、めばるなどのいくつかの港町に残っていた。そして、これらの地ではそのような女を「オチョロ」とよんだ。
 また、船で、よその港町に出かけ、そこに出店をもうけ、やがては住みつくという遊女屋の移動のあり方にも興味を覚える。
 これら四軒の茶屋が御手洗にとどまった後も、その移動の風習は形を変えて受けつがれたようである。そして御手洗を拠点として、御手洗の遊女は、鞆、尾道、宮島、大三島などにさかんに出向いている。それらの地には、いずれも有名な社寺があり、その祭礼の賑わいをあてこんで船で出稼ぎに行ったのであった。

(瀬戸内『御手洗』の町並みの15ページ)

写真は色里番付です。上位に尾道、宮島、鞆、御手洗があります。












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