魚信の由来(9)
魚信の土地は明治31年に地目新開地として登記されています。
2筆の土地は東側が久保町のTさんの所有で、
西側が御調郡菅野村大塔のMさんの所有でした。
昭和4年に地目が宅地に変更になるとともに坪数の増加が登記されています。

下の地図は昭和10年頃の久保町の辺りです。
左上から右下まで
胡小路・八軒小路・丹花町・尼寺小路・風呂小路
久保〒・(西国寺)大門・尊光寺・市立図書館
太陽館・正念寺・大宮町・小川町・今蔵小路
橋本町・水尾町・石屋町・向新地・玉栄館
新開・中之町・八坂神社・偕楽座・運輸課
後地・有徳社・平和通・昭和通・米場町
市役所・穀物検査所・銀行浜・新地・裁判所
などの地名が見えます。

魚信は新地の「新」という文字の下方です。







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魚信の由来(8)
魚信の由来(6)の上下町の人についてその住所を訪ねて来ました。
その結果わかったのは、上下町の掛屋(金融業)を営む有力者の長男で中学から東京の学校に通いアメリカに留学して第一高等学校の教授をし、英語の翻訳を行なう日本を代表する英語学者でした。
魚信の所有者になった昭和3年の11月には東京にて勲五等の受章を受けています。名義は長男になっていますが実質の所有者は75歳になるその父でした。
上下町の有力者がなぜ尾道の土地建物を買ったのかは、尾道から酢を仕入れたり、奥さんが尾道の海産問屋から嫁いでいたり、夏には避暑に尾道の海水浴に出かけたり、ということでした。
政財界との交際も広く料亭を使う機会も多かったそうです。
これより後、尾道のデパートを購入して経営していたこともあります。上下町に広大な屋敷が今に残っています。

写真は上下歴史文化資料館です。







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魚信の由来(7)
大正13年から昭和3年までは個人の所有になっています。
その方の名前から「竹亭」にゆかりがあるおそらくは「竹亭」の代表者の親戚ではないかと思われます。
竹亭と同じ名前が財間八郎先生の著書「夕映え」の227ページに慶応3年10月14日の「大政奉還」直後の混乱に関連して書かれています。
『そのため西の尾道方と東の福山方は、防地峠を境として、まさに一触即発の切迫した状況で、尾道方(芸州・長州)と福山方(阿部家)の交渉談判の使者の出入りも頻繁であったが、こうした公式の使者の応接は、殆ど市中の料亭でやったので、当時の記録にも、竹亭・鶴亭・胡半などの有名な料亭の名が見られる。』(著書より引用)
屋号が同じだからといってこの「竹亭」と同一かどうかはわかりませんが同じとすると140年前の話になります。その時代に魚信の前身の建物が既に建っていたのか、それが「竹亭」として使用されていたのか、はわかりません。
おそらく魚信の所在地の埋め立ては明治時代でしょうから慶応3年の「竹亭」は別の場所にあったと思われます。
現在の謄本では大正13年から以前は掲載がありません。

 
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魚信の由来(6)
昭和9年から昭和11年まで尾道栄信株式会社の所有でそれ以前の昭和3年から昭和9年まで甲奴郡上下町(現府中市上下町)の人が所有しています。
元禄11年(1698年)に天領となった上下には、代官所が置かれ、その後この代官所は石見銀山の出張陣屋となり、石州街道の要衝・金融業の町として栄えていました。昭和初期には劇場「翁座」が建てられていました。

 
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魚信の由来(5)
尾道栄信株式会社は大正末には魚信という屋号で仕出しを営業していた備前氏を招き料亭としての営業をすべて任せ、軌道に乗った2年後備前氏に売却したものと推察します。
 
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魚信の由来(4)
謄本によれば昭和の初期の所有者は尾道栄信株式会社でした。
この会社の会社謄本をとりました。
当時の尾道の政界と経済界の重要な人々の名前がありました。
そしてこの会社は極めて短期間に解散していました。

 
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魚信の由来(3)
その後経営は備前さんから代りましたが代々「魚信」の屋号の名で「料亭旅館」として営業しています。謄本によれば1社をはさんで、昭和40年から今日に至るまでの40年間以上、株式会社千光寺山荘グループの魚信が経営に当たっています。

建物としては、昭和52年ごろ、海岸通りの市道拡張で建物を一部
削って塀を後ろに下げた時に道路側からの外観や玄関が変わりましたが、海側の外観はほとんど変っていません。
数寄屋造りの建物を目当てに魚信にお見えになる観光客の方も多く、数寄屋造りの特徴を書いた小冊子をお渡ししています。内窓などの障子の桟にも特徴があります。細部の造作の補修なども原形を保持するように努めています。

備前さんから今日までは以上述べたとおりですが、さらにさかのぼってこの建物の前身を調べています。尾道の郷土史を参考にしながら久保町についてお知らせします。

 
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魚信の由来(2)
昭和25年頃改装工事を行いほぼ現在の数寄屋造りの建物になりました。備前亀治郎さんが大工の棟梁を連れて京都の数寄屋造りを見学したり、尾道市内の優れた細工を写して内窓を造りました。
「初音」のお部屋を増築して3階建てにしたのもこの時です。
当時は「日立造船」や三原市にある「帝人」のご利用が多かったと聞いています。
入口の横の応接室には昭和22年の料金表が残っています。
広島県旅館業協同組合の旅館宿泊料金表には、1泊2食付で一等八五圓・二等八〇圓・三等七〇圓と書かれ、横には英文字がちゃんと記されています。
その当時尾道には千光寺山のある個人の別荘にGHQの情報部があり、
その人たちが魚信を利用されたこともあり、英語表記はお部屋にもあります。

 
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魚信の屋号の由来(1)

魚信の屋号は80年、建物は約100年になります。

明治末の尾道港の写真にすでに魚信の建物が写っています。
謄本によりますと大正13年(西暦1924年)からの登記で
始まっています。
大正15年(西暦1926年)の尾道商工案内に尾道調理組合の
広告に「魚信」が出ています。
昭和5年(西暦1930年)の尾道商工名鑑に
業種は「料理・仕出」の項に「魚信」が国税営業収益納税者として
掲載されています。この時の住所は「久保町」電話は「377番」
代表者は「備前信次郎」とあります。

備前信次郎さんの名前から「信」(のぶ)の字を一字とって
魚信(うおのぶ)という屋号が始まりました。
その後、昭和11年7月にご子息の備前亀治郎さんが
所有権の取得の登記をしています。
これが魚信の屋号の由来です。
(先人を敬い敬称を使わせていただきます。)


 
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