御手洗(4)
御手洗にとっては、遊女は港町の表看板のように宣伝され、その日常も少なくともうわべは華やかであった。
毎年正月二日には遊女を動員して、晴衣装を着させ、三味線を鳴らしながら町内を年始のためにまわったことが町のしきたりになっていた。吉原や島原をしのばせるおいらん道中であった。文政11年防波堤千砂子波止を造ったが、そのとき港の鎮守として住吉神社が建てられた。その社寺の埋立式には町中の遊女が着飾って参加し、他国を始め近郷からこれを見物するために群衆をなしたといわれる。住吉神社が完成した最初の祭りには、派手やかな、おいらん道中がくりひろげられた。このように遊女たちは事あるごとに町の看板として、たびあるごとに行事にかりだされた。

お茶屋若胡屋の遺跡と御手洗
下鍛治尚眞氏編集64ページより引用させていただきました。

写真は御手洗の古い建物の格子のかけられた小さなすだれといけばなです。






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御手洗(3)
 四軒の茶屋が御手洗に来たのは、18世紀前半から中期、すなわち享保から宝暦にかけてである。それは、蛭子神社の修復がしばしばおこなわれはじめた時期とも重なり、御手洗が港町として繁栄のきざしを見せはじめた時代とみることができよう。
 若胡屋、堺屋が営んだ「船後家」なる商いは、沖に碇泊する船に小舟を漕ぎ寄せ、船乗りの身のまわりの世話、衣服のつくろいから洗濯など一切を行ない、夜は、一夜妻として伽をつとめるもの、と古老は伝えている。「船後家」の名もそのようなところから起こったのであろう。
 この風習は、昭和30年代前半まで御手洗をはじめとし、大崎上島木之江、めばるなどのいくつかの港町に残っていた。そして、これらの地ではそのような女を「オチョロ」とよんだ。
 また、船で、よその港町に出かけ、そこに出店をもうけ、やがては住みつくという遊女屋の移動のあり方にも興味を覚える。
 これら四軒の茶屋が御手洗にとどまった後も、その移動の風習は形を変えて受けつがれたようである。そして御手洗を拠点として、御手洗の遊女は、鞆、尾道、宮島、大三島などにさかんに出向いている。それらの地には、いずれも有名な社寺があり、その祭礼の賑わいをあてこんで船で出稼ぎに行ったのであった。

(瀬戸内『御手洗』の町並みの15ページ)

写真は色里番付です。上位に尾道、宮島、鞆、御手洗があります。












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御手洗(2)
御手洗の富クジ

港が繁栄するためには、あの手、この手で沖往く船を引きつけ、人寄せを行う必要があった。御手洗では、人形芝居の興行も早くから行われていた。上方から九州に向かう人形芝居の一座が興行を願い出た記録が、すでに宝暦6年(1756)にみられる。そのことから、すでにまちには、芸事を楽しむ余裕があった、とうけとることができる。
 また、文政元年(1818)には、弁天社の修理を捻出するため、古舟売買の市を立てることを年中行事以下10名の人びとが町年寄に願い出ている。古舟市はその後、年ごとに行なわれたようで、伊予方面などから人びとが集まり、賑わいをみせた。さらに、文政9年(1826)には、蛭子神社境内において最初の富クジが行なわれた。のち、富クジはいく度となく興行される。芝居興行や富くじが宮島、尾道とならんで許されたことは、御手洗の港に他国船を少しでも多く誘致するという藩のもくろみがあったからである。
(瀬戸内『御手洗』の町並みより23ページより引用)

写真は御手洗の町並み






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若胡屋
■名称 若胡屋跡(わかえびすや)
■場所 豊田郡豊町御手洗 
■TEL 潮待ち館・観光交流センター
    08466−7−2278
■アクセス 三原港から山陽商船で1時間。大長港下船徒歩15分。または竹原港から約40分。
■歴史   河村瑞賢が西廻り航路を整備した江戸の中期に「沖乗り」の航路の寄港地として、新たにひらかれた港町です。広島藩の公認で沖往く船を引きつけ、まちの繁栄をはかるため、四軒の茶屋(遊女屋)置かれました。若胡屋、堺屋、藤屋、海老屋です。文政2年(1819)の「国郡志御編集下弾書き出し張」によると、若胡屋は遊女40人、堺屋(酒井屋)、藤屋(富士屋)はそれぞれ20人、海老屋(のち千歳屋)は15人の遊女を抱えていたことが記されています。当時、四軒の茶屋をあわせると、百名ちかくの遊女がいたことがわかります。
(引用瀬戸内「御手洗」の町並み−潮まち館・観光交流センター刊)
■建物 江戸時代、御手洗地区に4軒あったという茶屋のうち、唯一現存する建物。最盛期には、百人もの遊女を抱えていたといわれています。おはぐろ伝説の壁が残っています。(県史跡)「若胡子屋の別棟の座敷は8畳・8畳・6畳の3室から構成されていますが、天井には屋久杉を使い、障子は赤漆の塗框にして腰板に屋久杉を使うといった素朴さの中に贅を尽くした構成になっている。(中略)なお、若胡子屋の建築年代は形式的には18世紀初頭と見られ、1724(享保9)年に御茶屋として藩の免許を受けているので、その時代と考えてよいであろう。」
■尾道との関連 文政11年「諸書付控帳」によると高宮郡古市村ふゆは、だまされて藤屋へ売られてきたが、逃亡を図るなど抱え主の手に負えなくなり、尾道に転売されています。(引用お茶屋若胡屋の遺跡と御手洗−潮まち館・観光交流センター刊)1830年天保以前版全国遊所番付には1段目に尾道・宮島・御手洗があります。

写真は若胡屋跡の中庭。


 
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旧田辺邸
■名称 旧田辺邸
■場所 広島県府中市上下町上下 
現在・指物濱一(喫茶室)
■アクセス JR福塩線福山駅から約1時間30分 三次駅から約1時間 東城・庄原・三次の各ICより約45分 山陽自動車道三原久井ICより約45分尾道・福山・三原より約1時間
■歴史 かつて幕府の天領として栄えた上下は、備後・備中五万石を支配する代官所が置かれ、いち早く中央の文化が伝わったまちで、当時を偲ばせる白壁やなまこ壁が残っています。
■建物 旧田辺邸は江戸期の町家。当時は幕府の公金を扱う掛屋を営み大名を凌ぐ生活ぶりだったといわれます。後、造り酒屋や農協の支店などを経て、現在は喫茶室となっています。旧岡田邸は、田山花袋の小説「布団」のモデル岡田美知代の生家。現在は上下町歴史文化資料館(TEL0847−62−3999)として一般に公開されています。近くのキリスト教会は明治時代豪商角倉(かどくら)家の蔵として建てられたものです。翁座は大正時代に着工、昭和2年に完成された県内でも数少ない芝居小屋です。

写真は上下川から見た旧田辺邸


 
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松阪邸
■名称 松阪邸(竹原市重要文化財)
■場所 広島県竹原市本町3丁目9番22号
■TEL 0846−22−5474
■開門 9時〜17時
■休館日 月曜日 12月29日〜1月3日
■入館料 大人 200円
■アクセス JR呉線竹原駅下車北へ徒歩約10分 山陽道河内インターから約20分 広島バスセンター・JR広島駅から芸陽バス「かぐや姫号」で70分
■歴史   浜主(塩田経営者)の家です。「沢田屋」と称し、薪問屋、石炭問屋、製塩業、酒造業や醸造業も経営、書画に巧みで文化への造詣も深かった。
■建物   江戸時代末期・文政(1818年頃)の建築を明治12年現在の形に改築、竹原の町並みの中でも独特の意匠をもった建造物で「てり、むくり」の流れるような唐破風の屋根、低い二階の二階の菱格子の窓、カーブした庇、彫刻を配した出格子、うぐいす色のぬりごめの漆喰塗りの大壁、座敷は数奇屋風で統一されています。
写真は松阪邸の屋根


 
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太田家住宅
■名称 太田家住宅
■場所 広島県福山市鞆町鞆842
■TEL 0869−982−3553
■開門 10時〜17時
■休館日 火曜日(祝日の場合翌日) 
12月29日〜1月1日
■入館料 中学生以上400円 小学生200円
■アクセス JR福山駅から鞆鉄バスで鞆港バス停下車徒歩5分
■歴史   保命酒はもち米を主原料に、うるち米、焼酎、16種類の漢方薬を使って醸造した薬酒です。江戸時代初期の萬治2年(1659)に中村吉兵衛が藩に願い出て、家伝の薬法で「焼酎製名酒」の製造販売を始めました。
■建物   太田家住宅は、平成3年に重要文化財指定を受けた、瀬戸内を代表する建築物群です。建物は、主屋や保命酒醸造蔵など9棟からなり、敷地の四方は道路で囲まれています。主屋は18世紀中期の建築年代と考えられています。


 
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旧閑谷学校(しずたに)
■名称 閑谷学校
■場所 岡山県備前市閑谷784
■TEL  0869−67−1436
■開門 9時〜17時
■休館日 12月29日〜31日
■アクセス 大阪方面から乗用車ご利用の場合備前ICから2号線を西進約15分JR山陽本線吉永駅よりタクシー5分
■歴史   庶民の学校・地方のリーダーを育てるために寛文10年1670年に創建されました。論語をはじめとして四書五経を学ぶ場でした。1673年講堂が完成し、岡山藩主池田光政が視察しました。
■建物   国宝の講堂をはじめとするほとんどの建造物は、備前焼瓦で葺かれています。石塀とともに閑谷学校特有の味わいを見せています。講堂では毎月1の日と6の日に教授役によって論語など四書の講釈が行われました。756メートルに及ぶ石塀がすべての建造物をとり囲んでおり、厳粛な学びの世界を作り出しています。


 
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